00009 実存主義について、魔法少女について

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 サルトルの『存在と無』を読んでいる。哲学を始めてから、私は実存という概念に魅了されっぱなしである。実存主義は今ではあまり顧みられることはない。しかし現代思想が始まって以来、実存は常に人々の関心の的であったはずである。実存の問題を抜きにして人間について語ることはできないと言ってもいいであろうと思う。もちろん人間以外についてもまたそうである。AIや人造人間といった技術が発展してくれば、それらについての実存についても否応なく考えさせられることになるだろう。
 サルトル存在と無』の訳者の著書である『実存主義』によれば、実存とは現実存在の略である。「ひとりひとりがかけがえのない自分の存在を意識しながら、その存在の仕方を選んでいくこと」が人間における現実存在の切実な問題である。人間の現実存在には個別性と主体性とが含まれているというように言いかえることもできる。今のところ、物や植物や動物にはそのような切実な問題は存在しないということになっている。ここは少し議論の余地がある部分だろうと思うが、今は主題ではないので放っておく。
 現実存在とはそもそも、本質存在の対立概念としてあるものである。本質とは、そのものの普遍的な共通点のようなもののことである。我々人間には個別性と主体性があるが、それらを完全に覗き去ったところに、人間の普遍的な本質がある。リンゴについても同じことが言えるのであり、このリンゴ、あのリンゴという区別から離れて、リンゴの普遍的な本質を捉えることがこれまで哲学の主題であった。「リンゴとはこれこれである」と言い表すことができるそれが本質存在であり、単なるリンゴの存在そのものが、現実存在である。すべての物には本質存在と現実存在がある。
 なぜ実存が問題なのか? 実存主義以前の哲学では、人間とは何か? がしきりに問われてきた。例えばカントは、人間の普遍的な義務とは何か、目的とは何かということを問い続けた。それらの問いは「人間とはこれこれをすべし存在である」とか「人間とはこれこれを求める存在である」という答えを求めているのであり、それらはつまり人間の本質存在への問いである。
 だが人間の本質などというものが本当にあるのだろうか。例えばはさみは「ものを切るためのもの」であり、それが本質である。その本質が先にあって、実際にはさみが作られ、現実存在としてこの世界に現れる。この世界にあるほとんどの道具がそうである。しかし人間はどうであろうか。人間は本質が与えられるより先にこの世界に存在してしまう。現実存在が本質に先立っている。この世に生まれ落ちてから、その後にようやく「自分とはこれこれである」という本質を探し求め始める。こうした人間の特異性、あるいは悲劇性を扱うのが実存主義である。
 私はなぜ働くのか。私はなぜ書くのか。私はなぜ食べるのか。私は何を行為するのか。そういうことを考えるのが実存主義であり、ある意味最も哲学らしい哲学と言えるのかもしれない。
 私の目下の実存主義的課題は「魔法少女において、実存は本質に先立つのか?」である。魔法少女はその性質から、既に存在の目的が決まっている、ある意味道具的な存在である。しかし同時に魔法少女は人間でもある。では魔法少女の実存は本質に先立つのであろうか。そして、この魔法少女についての議論は、我々一般の職業すべてに当てはまるかもしれないのだ。この世に生まれたときから、我々は既に何をすべきか決まっていたのかもしれない。そんなプロテスタント的な世界観が正しいのだろうか。それとも、我々が何をすべきかはこれから自分で決めるべきなのだろうか。これはこれで残酷だと捉える人もいるかもしれない。私は残酷だと思うが、ここの読者の方はどう思うだろうか。
 ところで、魔法少女と実存について考える上で無視できない小説がある。艦これの二次創作『艦娘哀歌』という小説である。ここで言ったような議論が哲学用語をまったく使わずに切実に行われていてとても興味深いので、興味がある人は読んでみてほしい。