00010 ドイツ観念論とマルクス主義と実存主義、そして艦これについて

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 なぜ私はドイツ観念論マルクス主義、そして実存主義にかぶれていのか、整理してみたいと思う。
 私が元々哲学に興味を持った最初のきっかけは、毛沢東主義を理解しようとしてのことだった。弱者のための理論を探し求めていた私は、歴史上で弱いほうが勝利した戦争を参考にしようとし、白羽の矢が立ったのが中国革命戦争及び抗日戦争だった。中国共産党という弱小の勢力が、国民党と大日本帝国という2つの敵に対してどのように戦ったのかを知りたかった。そしてその戦争を指揮するための理論を理解したかった。だから毛沢東の著作を読むことにした。最初に読んだのは『実践論・矛盾論』だった。
 この著作にマルクスレーニンという単語が頻出していたから、私はレーニンマルクスを読むことにした。ここで私はマルクス主義にのめりこんでいった。レーニンマルクスを読んでいると、ヘーゲルを元に思想を展開しているということがわかったから、次はヘーゲルを読むことにした。ヘーゲルはカントの影響を受けて哲学をしているということがわかったから、その後はカントに手を出した。そういう経緯で、私はドイツ観念論(カントからヘーゲルにかけての思想)にのめり込んでいった。
 しかしドイツ観念論は難しかった。特にヘーゲルの文章はあまりにも難解で私には理解できないと一度諦めてしまった。だからそこで私の哲学へのアプローチは一旦停止することになる。とはいえ一度哲学という物を知ってしまったからか、哲学全般に対する興味はずっとくすぶり続けていた。
 そこで出会ったのが艦これの二次創作だった。艦これは、キャラクターとその元ネタ、そして限定された台詞だけが提供され、世界観やストーリーに指定はなかったため、その二次創作は1.5次創作とでも呼べるような自由なものになっていた。私が感銘を受けた艦これ二次創作の小説では、人間から艦娘になった艦娘と、初めから艦娘として作られた艦娘が入り交じって存在しているという世界観だった。そうした世界観の中で、自分は何のために生まれたのか、何のために死ぬのか、死は自分にとって何なのか、自分の名前は何か、仲間とは何か……そいういうことを戦いの中で問い続ける小説だった。『艦娘哀歌』という小説で、今でもpixivとハーメルンで読めるので二次創作でも大丈夫という方は読んでみて欲しいのだが、とにかく私はその小説を読んで衝撃を受けたのだった。
 その小説の作者が所属していたサークルの作品群を読み漁った結果、そのサークルの作品がテーマとしているのが、「死」と「人倫」と「実存」であることがわかってきた。漫画を担当している人がハイデガーの『存在と時間』を読み古しているというツイートをしているのを見て、読むことにした。そこから、サルトルなどの実存主義へとはまり込んでいった。
マルクス主義は、どうすれば現実を変えることができるかを探求する哲学だった。ドイツ観念論は、どうすれば人は真理を得ることができるのかを探求する哲学だった。実存主義は、自分の人生の意味について素朴に考え続ける哲学だった。これまでにない、しかし力強い哲学に触れ、私はこれにのめり込んだ。
 そうこうしているうちに、ハイデガーサルトルヘーゲルやカントを元に考えていることが分かってきたため、結局またドイツ観念論に戻っていくことになる。そのような紆余曲折を経て、私は今も、ドイツ観念論実存主義、そしてマルクス主義についての本を読み続けている。かれこれ5年か6年くらい経っているのではないだろうか。これからもこの先の見えない取り組みを続けるのだと思う。

00009 実存主義について、魔法少女について

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 サルトルの『存在と無』を読んでいる。哲学を始めてから、私は実存という概念に魅了されっぱなしである。実存主義は今ではあまり顧みられることはない。しかし現代思想が始まって以来、実存は常に人々の関心の的であったはずである。実存の問題を抜きにして人間について語ることはできないと言ってもいいであろうと思う。もちろん人間以外についてもまたそうである。AIや人造人間といった技術が発展してくれば、それらについての実存についても否応なく考えさせられることになるだろう。
 サルトル存在と無』の訳者の著書である『実存主義』によれば、実存とは現実存在の略である。「ひとりひとりがかけがえのない自分の存在を意識しながら、その存在の仕方を選んでいくこと」が人間における現実存在の切実な問題である。人間の現実存在には個別性と主体性とが含まれているというように言いかえることもできる。今のところ、物や植物や動物にはそのような切実な問題は存在しないということになっている。ここは少し議論の余地がある部分だろうと思うが、今は主題ではないので放っておく。
 現実存在とはそもそも、本質存在の対立概念としてあるものである。本質とは、そのものの普遍的な共通点のようなもののことである。我々人間には個別性と主体性があるが、それらを完全に覗き去ったところに、人間の普遍的な本質がある。リンゴについても同じことが言えるのであり、このリンゴ、あのリンゴという区別から離れて、リンゴの普遍的な本質を捉えることがこれまで哲学の主題であった。「リンゴとはこれこれである」と言い表すことができるそれが本質存在であり、単なるリンゴの存在そのものが、現実存在である。すべての物には本質存在と現実存在がある。
 なぜ実存が問題なのか? 実存主義以前の哲学では、人間とは何か? がしきりに問われてきた。例えばカントは、人間の普遍的な義務とは何か、目的とは何かということを問い続けた。それらの問いは「人間とはこれこれをすべし存在である」とか「人間とはこれこれを求める存在である」という答えを求めているのであり、それらはつまり人間の本質存在への問いである。
 だが人間の本質などというものが本当にあるのだろうか。例えばはさみは「ものを切るためのもの」であり、それが本質である。その本質が先にあって、実際にはさみが作られ、現実存在としてこの世界に現れる。この世界にあるほとんどの道具がそうである。しかし人間はどうであろうか。人間は本質が与えられるより先にこの世界に存在してしまう。現実存在が本質に先立っている。この世に生まれ落ちてから、その後にようやく「自分とはこれこれである」という本質を探し求め始める。こうした人間の特異性、あるいは悲劇性を扱うのが実存主義である。
 私はなぜ働くのか。私はなぜ書くのか。私はなぜ食べるのか。私は何を行為するのか。そういうことを考えるのが実存主義であり、ある意味最も哲学らしい哲学と言えるのかもしれない。
 私の目下の実存主義的課題は「魔法少女において、実存は本質に先立つのか?」である。魔法少女はその性質から、既に存在の目的が決まっている、ある意味道具的な存在である。しかし同時に魔法少女は人間でもある。では魔法少女の実存は本質に先立つのであろうか。そして、この魔法少女についての議論は、我々一般の職業すべてに当てはまるかもしれないのだ。この世に生まれたときから、我々は既に何をすべきか決まっていたのかもしれない。そんなプロテスタント的な世界観が正しいのだろうか。それとも、我々が何をすべきかはこれから自分で決めるべきなのだろうか。これはこれで残酷だと捉える人もいるかもしれない。私は残酷だと思うが、ここの読者の方はどう思うだろうか。
 ところで、魔法少女と実存について考える上で無視できない小説がある。艦これの二次創作『艦娘哀歌』という小説である。ここで言ったような議論が哲学用語をまったく使わずに切実に行われていてとても興味深いので、興味がある人は読んでみてほしい。

00007 小説が書けないし本が読めない、という弱音

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小説を書くことをしばらく断念している。率直に言って、書けない。脳の、小説を書くための部分が機能することを止めてしまっている。正直に言って苦しい。私自身の心は小説を書きたいと思っているし、小説家になりたいという夢もまだ持っている。だが私の脳と身体は小説を書くことを拒んでいる。この矛盾の中で苦しんでいる。
読書もあまりできていない。小説を読むこともできずにいる。カントを無理して読んでいるが、これも長くは続かないだろうと思う。人文学的なことを考えるのがたまらなく好きだったのだが、どうしてしまったのだろうか。
ただ弱音を吐くだけになってしまった。たまにはこういうのでもいいかもしれない。

00006 哲学について考える

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自分がなぜ哲学をしているのかわからなくなってきた。カント哲学は、数学や自然科学の技術革新をまねる形で、コペルニクス的転回を哲学に導入した。つまり、太陽が地球の周りを回るのではなく地球が太陽の周りを回っているのだと喝破した科学者に習って、認識が対象に従うのではなく対象が認識にしたがうのだと宣言した。これがカント哲学の出発点であり、認識論の躍進の始まりである。
しかしカントは重要なことを他にも言っている。自然科学では、科学者が自然の生徒になるのではなく、裁判官にならなければならない。そして自然に答弁を強要せねばならないと。つまり実験という人為的活動のことである。自然科学は実験があったから進歩した。であれば、哲学にも実験をドシドシ取り入れて行く必要があると、カント流に考えるならそうならないだろうか。
裁判官は私であると同時に、被告も私である。私の中にある法則を明にするために法廷が開かれるのである。つまり思考実験である。私は暴トロ(トロッコ問題)を初めとして哲学的な思考実験が大好きだ。ここには、自分の理性が問い詰められて頭を抱えている様が見えるのだ。そしてそこから引き出される答弁の矛盾。自然とは違って理性は矛盾した答弁をする。それをどう捉えていき、さらに新しい質問を投げかけるかが、哲学の面白いところなのだと思う。

00004 スランプを明るく過ごす

# 00004
私は社会人になってからかなり無気力な人間になってしまった。一応家では哲学書を読んでいるがそれが何かの思想の源泉になっているわけでもない。自分の意見もなければやりたいこともない。そういう人間になってしまっていた。
最近は高校時代以来の将棋を行っている。将棋のアプリには将棋ウォーズを使用している。一応初段などになれば将棋連盟から免状のようなものがもらえるらしいので(3級からでももらえるらしい)、まずはそれを目指して頑張ってみたいと思う。
また、絵の練習を少しだけ始めている。あまり一次創作で何かを書きたいという気持ちは無いのだが、自分の好きなキャラを様々な視点で書くことができる能力を身につけることができれば、それはとても素晴らしいことだと思う。なのでこちらにも挑戦している。
「小説は? もう書かないのかい?」
そのような声が頭の中から聞こえてくるのも事実。しかしこれについてははっきりと、書くと答えることができる。少しスランプに陥っているだけである。その間に他の自分の趣味を充実させている間にまたふと、小説を書きたいという気持ちになるに違いない、そう思って小説以外の趣味を全力で楽しむことにしている。
読みやすい小説以外は読めない、というかなり深刻な状況に陥っているので、小説を読んだり書いたりする精神ではないということはなんとなく理解している。
思い通りに身体や精神が動いてくれないとき、それは単なる自然現象なのであり、それが過ぎ去るのを待つしかないのだと思う。特に、精神を自然現象と呼ぶのには勇気がいるが、確かに私の自由にはならない外部的な自然現象であることに気づくと思う。そんなわけで、しばらくはやりたいことをしながら心身を休ませることにしようと思う。

00003 矛盾について、対立関係について

# 00003
毛沢東の『矛盾論』を読んでいる。というより再読している。
私は、この世界に弱者と強者が別々に存在していることが許せない。弱者と強者との間の差を色んな手段によって小さくすること。それが私の人生のテーマの一つになっている。今は哲学、それもドイツ観念論にのめり込んでいるが、元々は毛沢東主義がメインだった。そこから、レーニンマルクスヘーゲル、カントと遡って学んでいったという経緯がある。
哲学とは別に取り組んでいるのが、将棋だ。将棋は何も動かさない最初の場面ではまったくの互角である。そこには強者も弱者もない。しかし、駒が動き出すと、明確に戦力や陣形に差が生まれ始める。そこに生まれてしまった弱者と強者の関係を入れ替えるためにはどうすれば良いのかを考えるのが楽しいと感じる。人生をそのままやっているような感じがする。
また別に取り組んでいるのがシステマである。パワーやスピードにあまり依存しなかったり、体格差を覆すことが可能だったりする武術をいくつか調べていく中で、システマにたどり着いた。
『矛盾論』の話にもどる。強者と弱者という二つの対立物の相互浸透について考えることが重要になる。なぜ強弱があるのか。強弱の違いを生み出している矛盾はいくつあるのか。それらの中で、主要な矛盾はなにか。その矛盾を解消すればこの対立は解消あるいは反転するのだろうか。そのようなことを考えながら目の前に存在する対立関係を破壊することを目論んでいく。それが、レーニン毛沢東が手段として用いた弁証法である。
こうした弁証法は唯物弁証法と呼ばれるので、機会があればまた説明したいと思う。

00002 システマを習ってます

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ステマという武術を習っている。武術を習っているからといって強いわけではない。喧嘩のやり方もわからない。戦う方法を学んでいるというよりは、正しい身体の使い方を学んでいる。それが結果として戦うための動きになる……という感じだ。
相手から何か攻撃をされたりなど、強いストレスを受けると、人間は自分で自分の動きを制限してしまうらしい。そうした制限を生んでいる自分の緊張を取り除いていくことで、自分の身体を自由にしていく。そうして自由になった状態で、相手の動きに合わせてこちらも正しい動きで対応できるようにする……そんな練習をしている。これは私が私なりに理解して言語化しているだけなので、間違っているかもしれないし、明日には私も別のことを言っているかもしれない。気になる人はYouTubeなどで「システマ」と調べてみていただければ話が早いと思う。殴ったり殴られたりしている動画が色々出て来ると思う。
自分の緊張によって自分を制限してしまう、というのは武術的なことに限った話では無いのだと感じる。何か重大な間違いをしてしまったときに、もう○○するしかない! と焦って悪手を選んでしまうことがあるだろう。そういうときにも、精神に良くない緊張が生まれているのだと思う。システマでは、緊張を取り除くために呼吸せよと教えられる。鼻から吸って、口から吐く、それだけだ。
精神が緊張しているときは、同時に身体もどこかが緊張している。ゆっくり呼吸をして、身体の緊張を取る。そうすると、精神のほうの緊張も少し和らいでくれる。読者の皆様も、ストレスにつぶされそうになってしまうようなことがあれば、呼吸してみてほしい。活路が見いだせるかもしれない。